ジャレド・ダイヤモンド(2012)『銃・病原菌・鉄——1万3000年にわたる人類史の謎』(上・下)草思社
Jared Diamond (1997) Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies. New York: W.W. Norton & Co.
ー人類史、文明史の理解とヨーロッパの覇権ー
教養という、今は死語になりつつある概念の中心に位置しているのは、やはり歴史学であろう。現在の世界が、なぜ今日の姿をとるようになったのか、人類の社会と文化の驚くべき多様性はいかに発展し、維持されてきたのか、そしてとりわけ、過去数百年継続しているヨーロッパの覇権(ヘゲモニー)はなぜ可能になったのか。これらは、共生学にとっても根本的な課題であり、その理解には歴史学の知見が必要だ。
歴史を考えるときつねに問題になるのは、どこまで遡るのか、いつを起点とするのかということである。ここでは、文明や国家が誕生する契機となった、食料生産革命、つまり野生植物の栽培化と野生動物の家畜化(日本語では栽培化と家畜化は別の単語だが、英語ではdomesticationである)による農耕と牧畜の開始から話をはじめることにしよう。その時期は、大陸や地域によって異なるが、もっとも古くて、1万2、3000年前になる。過去1万年余りの人類史を俯瞰し、近代におけるヨーロッパの覇権の謎を解明してくれる著作として、ジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』を推薦したい。
1997年に英語版が出版されたこの本は、著者を一躍世界的に有名にした。2000年に出版された、日本語版は分厚い専門書であるにもかかわらず、ベストセラーになった。ところで、1937年生まれの著者は歴史学者ではない。もともと理系の研究者で、生物学や生理学を専門としていた。そこから、進化の問題に取り組み、ニューギニアなどでフィールドワークを実施する過程で、霊長類学、人類学や歴史学にも関心を広げていった。50歳代になると、それまでの調査研究をもとに、一般読者にもアピールするような著書の出版をはじめた。
著者の原点になったのは、1972年、ニューギニアでの経験である。好奇心旺盛で知的な現地の政治家は、彼にこう尋ねた。「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」(上巻、24頁)。これは、素朴ではあるが、核心をついた疑問である。
これは、近代世界におけるヨーロッパの覇権をめぐる問題であり、ダイヤモンドは「現代世界における不均衡」問題として定式化している。
したがって、現代世界における各社会間の不均衡についての疑問は、つぎのようにいいかえられる。世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? なぜほかの形で分配されなかったのか? たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、アフリカ大陸の人びと、そしてオーストラリア大陸のアボリジニが、ヨーロッパ系やアジア系の人びとを殺戮したり、征服したり、絶滅させるようなことが、なぜ起こらなかったのだろうか(上巻、25頁)。
この問いに答えるために、ダイヤモンドが注目するのが、本書のタイトルになっている、鉄、病原菌、銃という三つの要因である。このうち、近代ヨーロッパが、鉄と銃の生産と利用にについて先進的であり、それが世界の他の地域に対する優位性を保証したことは、すでによく知られている。本書の独自性は、第一に、これらに病原菌を加えたことである。ところで、鉄と銃だけでなく、ヨーロッパの優位性を支えた文字と紙、印刷術、大型帆船の建造技術と航海術、それに国家の官僚制と軍隊のシステムのすべては、もともとヨーロッパ以外の地域で発明されたものである。なぜ、これらの技術やシステムは、発明の起源地ではなく、ヨーロッパで発展し、世界の覇権確立に利用されることになったのか。この疑問に対する答えが、本書の第二の独自性である。
新大陸(南北アメリカとオーストラリア)で、先住民の社会に壊滅的な打撃を与えたのは、ヨーロッパ人による殺戮と征服ではなく、ヨーロッパ人が旧大陸(ユーラシア大陸)から持ちこんだ、天然痘などの疫病であった。麻疹(はしか)、結核、天然痘、インフルエンザなどは、もともと家畜化された動物の病気であり、家畜と接触する過程で人間も感染するようになった。旧大陸の人びとは、長い歴史のなかでこれらの病気に対する免疫を持つようになったが、新大陸の人びとはまったく無防備であった。ダイヤモンドは、これらの病気を「家畜がくれた死の贈り物」と呼んでいる(11章)。
第一の独自性についてもそうだが、とりわけ第二の独自性を説明するさいに、著者はいわば生態地理学的な視点を導入する。ユーラシア大陸は、そもそも巨大であり、かつ東西に長い。東西に長いということは、同じ緯度の、よく似た気候の地域が連続して存在することを意味する。そして栽培化・家畜化されるべき、さまざまな野生の植物や動物が、あちこちに分布していた。ユーラシア大陸は、文化と文明の伝播と混交が生じやすい生態地理学的特性を備えていたのである。その西端に位置するヨーロッパは、「後発地域の有利さ」を有していた(10章)。したがって、近代ヨーロッパの優位性は、他の大陸や島嶼部と比べたときの、ユーラシア大陸の優位性の帰結であるといえる。
こうした観点は、本書のちょうど40年前に刊行された梅棹忠夫の「文明の生態史観」を想起させる。両者の比較は興味深い課題である。
ヨーロッパの優位が確立する以前、数世紀にわたって経済と政治、そして科学技術の分野で、世界でもっとも発展していたのは中国であった(16章)。なぜ中国はヨーロッパに追い抜かれたのか。下巻のエピローグにおいて著者は、「なぜ中国ではなくヨーロッパが主導権を握ったのか」という節を設けて、この問題を考察している。著者は、中国は皇帝のもとに中央集権化されたひとつの国家であったのに対して、ヨーロッパは政治的統合の度合いが低く、多数の小国家が並列していたことが、競争による技術の革新や多様性の確保に有利に作用したと考察している。
さて、本書の優れた点は、地球上のほとんどの地域に目配りが行き届いていることである。オーストラリアとニューギニア、オセアニアの島嶼部、中国、アフリカにも、それぞれ1章が割り当てられている。本書は真の意味で「世界史」あるいは「人類史」であるといえるだろう。
最後に、ダイヤモンドの出発点となった、ひとりのニューギニア人の疑問に立ち返ってみよう。私が付き合ってきた、エチオピアと南スーダンのアニュワ人とパリ人も、同様の疑問を抱いている。彼らは、ヨーロッパ人の優位性を説明する神話を創造することで、この疑問に答えようとした。それによると、「鉄と紙」は、もともと彼らが所有していたのだが、弟を殺したために追放された兄によって持ち去られてしまったのだ。罪を負って追放された兄は、「白人」の祖先となった。言うまでもなく、「鉄」は銃や自動車、船や鉄道を表し、「紙」は文字のシステムとそれで支えられた国家や政府を意味する。つまり、原初には彼らも「文明」を所有していたが、失ってしまったのだ。これはひとつの説明のあり方である。私が知っている事例は、「ヨーロッパの優位性に対する疑問」が普遍的であることを示唆している。
(栗本英世)