大阪大学 人間科学研究科 共生学系

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東浩紀(2017)『観光客の哲学』genron (HPリンク)

 

まず、少し長文になるが、本書の概要を説明しよう。観光客の哲学は、「グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と不変につながるもうひとつの回路はないか。その可能性を探る企て」である。ここで、観光客とは、さしあたって、国家を離れ、他者の承認も歓迎も求めず、個人の関心だけに導かれて、ふわふわと行動する人々のことである。

著者は、まず観光客をマルチチュードに重ねようとする。しかし、マルチチュード概念には、マルチチュードの力が、どのようにして現実の政治に結びつくのかという戦略論・運動論が欠如しているという致命的欠陥があると指摘し、その結果、ネットと愛さえ信じれば、あとは生政治の自己組織化で何とかなるという発想だと批判する。そこで、著者は、デリダの誤配の概念に立ち戻り、郵便的マルチチュードを提唱する。郵便とは、現実世界の様々な失敗(誤配)の効果で存在しているように見え、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉として使われている。図式化していえば、マルチチュードを郵便化して、郵便的マルチチュードとし、その姿を観光客と捉えるわけである。郵便的マルチチュード(観光客)は、物見遊山に出かける。そこには、連帯なしのコミュニケーションが見られ、誤配もある。そして、私的な欲望で公的な空間を密かに変容する蓋然性が見られる。

ここで著者は、ネットワーク理論を参照し、郵便的マルチチュードが何に、どのように対抗するのかという観点から、郵便的マルチチュードの戦略を提示する。我々は、同じ社会を前にして、スモールワールド性を感じるときと、スケールフリー性を感じるときがある。著者は、双方の性質を、ナショナリズムとグローバリズムの二層構造、政治と経済の二層構造、「人間の条件」とその外部、政治とその外部、国民国家と帝国、規律訓練と生権力、正規分布とべき乗分布、人間がひとりひとり人間として遇されるコミュニタリアンなコミュニケーションの圏域と人間が動物の群れとしてしか係数されないリバタリアンな統計処理の圏域、などと対応させて捉える。そして、郵便的マルチチュード(観光客)は、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」(誤配)の操作を、スケールフリーの秩序に回収される手前で保持し続ける抵抗の実践者と位置づける。郵便的マルチチュードの戦略とは、誤配を演じ直す「再誤配の戦略」である。出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもう一度つなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことである。結局、観光客の哲学とは、誤配の哲学である。

最後に、著者は、郵便的マルチチュードを支えるシステムとして家族を挙げ、観光客の主体のあり方について試論を展開している。その際、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の続編に言及する。すなわち、「カラマーゾフの兄弟」は、その冒頭で書かれたことに反して、アリョーシャの物語になっておらず、物語の末尾になぜか多くの子供が登場することから続編が構想されてきた。多くは、アリョーシャが皇帝暗殺のテロを働くという筋書きになっているが、著者は、子供達のうちコーリャが成長してテロを働き、アリョーシャはそのただ傍にいるという続編を展開した亀山郁夫を支持する。そこでは、結局、アリョーシャは、テロについて事前に知るけれどテロ組織の指導者にもならず、父のように守りもしない。何もしない「不能の父」として描かれる。そして、アリョーシャこそが「観光客(郵便的マルチチュード)の主体」だと指摘する 。

 

さて、長々と著者の議論を辿ってきたが、共生学と何の関係があるのかと訝る向きもあるだろう。しかし、長年にわたって災害ボランティアを研究してきた私にとっては、本書を読んだとき、久々にドンピシャの議論に出くわした気がした。無論、折に触れて、デリダの出てくる本(二次創作?)には触れてきたし、東浩紀氏の言動には関心を持ってきたが、デリダの著作を読んだわけでもなければ、東浩紀氏の著作を遍く読んできたというわけでもない。上記の要約も、議論の核心を外しているかもしれないし、たくさんの誤読を重ねているのだと思う。ただ、哲学的な議論に1人のファンとして関わっていると自分の研究に洞察が得られることもあるのは事実である。それは、災害ボランティアの現場で汗を流すこととはまた別の、しかし、とても重要な営みであると感じている。

そこで、得られたヒントを少しだけ紹介して終わりにしよう。まず、最近の災害ボランティアの現場を振り返ってみる。被災地に開設される災害ボランティアセンターを経由するボランティアがいる。災害ボランティアセンターのマニュアルは細分化されていき、全国的な組織が形成され、国や自治体、そして、私企業がそれを支える秩序化の動きが進行している。一方、もっと自由に気ままに活動する災害ボランティアもいて、「勝手に被災地に駆けつける」、「支援が集中していないところにこそ支援に入る」、「被災者に寄り添う」といった姿勢を堅持しようとしている。私が親近感を覚えるのは後者である。後者の災害ボランティアに郵便的マルチチュードの姿を重ねることができると思うわけである。

まず、遊動性を堅持する災害ボランティアは、「勝手に被災地に駆けつける」。物見遊山(と揶揄されようと)に出かけていく郵便的マルチチュードと同様、ふと出かける。次に、遊動性を堅持する災害ボランティアは、災害ボランティアセンターによるコーディネートにとらわれることなく、誰彼となく支援を展開する。物見遊山に出かけた郵便的マルチチュードが、連帯なしに誰彼となくコミュニケーションを図るのと同様である。そして、遊動性を堅持する災害ボランティアは、「支援の集中しないところ」に赴く。そこでは、支援の集中を回避することで、スケールフリー性が回避される。具体的には、誤配が演じられることで、支援の不平等化が回避される。郵便的マルチチュード(観光客)が、通常の観光地に飽き足らず、より独自の観光地、誰も行かない場所にも行きたくなることと対応する。最後に、遊動性を堅持した災害ボランティアが「被災者寄り添う」というとき、実は、何も具体的な事柄は特定されない。いわば不能である。不能の父として描かれたアリョーシャ、郵便的マルチチュードの主体である。

牽強付会、我田引水の誹りを招くかもしれないが、一旦、こうして対応をつければ、あとは著者の議論に沿って色々な問題が解ける(ように思える)。ひと言で言えば、遊動性を堅持した災害ボランティアの優位性が語れるようになる。観光客の身勝手さ、軽やかな真面目さ(不真面目さ)は、今後の災害ボランティアや共生を考えていくときのキーワードであろう。実践は、ここからスタートするのだという予感をもちながら、遊動性を堅持した災害ボランティアの1人として、また被災地へと向かうことになる。

 

(渥美公秀)