大阪大学 人間科学研究科 共生学系

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見田宗介(1996)『現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』岩波書店(HPリンク)

見田宗介(2018)『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』岩波書店

ー現代の社会と世界をどうとらえるかー (HPリンク)

 

現代の社会と世界を、われわれはどう理解すべきなのか。自分たちが生きている社会と世界は、いかなる概念を用いて語ることができるのか。そして、私たちはどこへ向かおうとしているのか。これは共生を考えるうえで、避けては通れない基本的課題である。この課題については、多数の文献がある。そのなかから、1937年生まれの社会学者、見田宗介の著書2冊を推薦したい。理由は以下の3点である。1) 統計や意識調査の資料を駆使し、論旨が明快で読みやすいと同時に、理論的奥行きがあること、2) 岩波新書で入手しやすいこと、3)2冊を併読することで、約20年間の世界と社会の変化と、著者の思索の変化をたどることができる。

私が京都大学文学部の学部生から修士課程の院生であった1980年前後、見田宗介は輝くスターだった。1977年に真木悠介名で『気流の鳴る音――交響するコミューン』を、1979年には『現代社会の社会意識』を、1981年には『時間の比較社会学』を出版した。『現代社会の社会意識』はオーソドックスな著書だが、他の2冊は、当時の社会・文化運動に関する文献や文化人類学の成果から自由自在に引用しながら議論が展開されており、刺激を受けた。ちょうど『時間の比較社会学』が刊行されたころ、京大文学部で講義をしたことがあり、聴講したことを覚えている。当時40歳代前半であった見田は、青年のような若々しさを発散させていた。それから40年ちかくが経過したが、見田の思索は衰えることはない。彼の社会学に関心のある方は、もう1冊の岩波新書『社会学入門――人間の社会と未来』(2006)と、『現代思想』の総特集「見田宗介=真木悠介」(2016年1月臨時増刊号)の併読をお薦めする。

『現代社会の理論』は、1996年に刊行された。20年以上前になるが、本書の内容は古くなったとは感じられない。見田の論点は明快である。現代を「情報化」と「消費化」が極限に達した社会と規定する。これは現代社会の「光」の側面である。この社会が直面しているのは、二つの「限界」という「闇」の側面である。つまり、情報化と消費化は、いつまでも続くわけではない。一つは、資源の限界であり、もう一つは貧困という限界である。前者には、環境問題とエネルギー問題が含まれ、後者は、南北問題と、「豊かな北」内部における貧困の問題から構成されている。

限界という問題設定は、現代社会には「システムの外部」が消滅したという認識と連関している。つまり、近代における先進諸国の繁栄は、システムの外部、つまり植民地や途上国の搾取のうえに成り立っていた。世界全体がひとつのシステムになった結果、「外部」は消滅した。先進諸国が、途上国の資源を一方的に搾取したり、産業廃棄物を途上国に押し付けたりすることは、もはや不可能になったのである。

以上の問題認識に基づき、見田が構想するのは、「ほんとうに〈自由な社会〉の実現」である。この課題は、2番目の著書で展開されている。

2018年6月に刊行されたばかりの『現代社会はどこに向かうか』の魅力は、その楽観主義にある。同時にそれは、この著書に対する批判の主要な標的になるだろう。本書の基底にあるのは、過去二千数百年の人類の歴史のなかに現代を位置づけようとする、いわば文明史的視点である。人類の発展の歴史は、〈情報化/消費化社会〉の完成をもって、20世紀後半に頂点を迎えた。本書の副題に含まれる「高原」とは、「高止まり」の意味である。つまり、成長の時代は終焉したということだ。

見田は、「世界価値観調査」の結果に注目する。それによると、「高原」に達した先進諸国の若者たちのあいだで優越しつつある価値は、「寛容と他者の尊重」そして「利己的でないこと」である。それに加えて、「仕事にはげむ」ことの価値づけも高まっている。見田はこれを、たんに猛烈に働いて生産を増大させるためではなく、「共存の環としての仕事」、つまり他者とつながるための仕事という観点の現れと解釈している。

繰り返すが、著者による将来の展望は明るい。

 

必要な以上の富を追求し、所有し、誇示する人間がふつうにけいべつされるだけ、というふうに時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する。必要な以上の富を際限なく追求しつづけようとするばかげた強迫観念から資本家が解放されれば、悪しき意味での「資本主義」はその内側から空洞化して解体する(人間の幸福のためのツールとしての資本主義だけが残る)。(129-130頁)

 

今やあり余る高度産業社会の生産力の成果は、最初はその社会の中の未だ飢えた人びとの方に、それから世界中の諸地域の飢えた人びとの方に、双方の歓びをもって奔溢し、生存の基本条件をゆきわたらせるところまで、止まることがない。あるいは世界の諸地域の幾百年、幾千年生きられてきた自立的な生活系、生態系をこれ以上破壊し開発し搾取することがない。飢えと荒廃と怨恨とテロリズムとの問題は、その根源から解消する。(130-131頁)

 

人類全体のレベルで共生の実現を目指す共生学の立場からすると、まことに心強い議論である。他方で、見田の考えは、楽観的すぎる、あるいは、たんにユートピア的世界観の表明ではないのか、現代世界の現実が指し示しているのは逆方向の展開である、といった批判が、当然あるだろう。二つの著書における議論は、著者の信念を開陳しただけのものではなく、世界規模の統計資料や意識調査の結果に依拠したものである。したがって、反論するには、同様のデータを精査する必要がある。

21世紀を展望する研究者の議論には、悲観論のほうがおおいだろう。その意味で、極端な楽観論と言ってよい、見田の観点を一方の極に据えることは、今後の議論の展開にとって有意義であると考える。

 

 (栗本英世)