大阪大学大学院 人間科学研究科 共生学系

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國分功一郎(2017)『中動態の世界』医学書院 (HPリンク)

 

能動態-受動態以外に、もう1つの態として中動態が存在してきたことを指摘した著作。この本を文法の本と思って読むのは誤解とは言えないとしても、あまりにもったいない。また、中動態となる日本語の語彙を探しまくるというのも、議論のポイントを外している。本書の冒頭にあるように、中動態への注目の契機となったのは、日々「自分の意志を示さなければならない」「責任を果たさなければならない」という声に苛まれている依存症の人々との接触であった。つまり、その人自身の意志ではどうしようもなく責任もとれない場面であるにも関わらず、その人の行動がその人自身の意志・責任へと帰属される場面である。中動態の世界とは、現代社会において、個人の意志・責任や選択といったことが問題となる場面をどのように考えるかという議論に開かれている。

われわれは、自身の考え方や行動を規定する言語のレベルにおいて、能動態-受動態(「するーされる」関係)にどっぷりとつかっている。この二項で考える限り、少なくとも能動側、受動側の2者が想定され、能動側には、その行為に対し意志と責任が帰属・追求され、受動側にはそれを受け止めること(防災の世界では「受援力」などという言葉まで創られています)の意志と責任が求められる。言い換えれば、われわれは、主語の明確な世界にいることを正常(少なくとも見かけは)とした社会に住まうのが通常であり、依存症の人々に典型的なように、意志も責任もない状況を作られて、そこで主語が明示できないのに無理矢理自身が主語だと想定され,自身に意志(の弱さ)と責任があるのだと言われてしまい、そのことに苦しむ「小さくされて」生きざるを得ない人々が存在することが捉えがたくなっている。

ところが、能動-受動に束縛されないもう1つのあり方があるというのが中動態の議論である。すなわち、誰の意志でもなく、責任でもなく、そうなってしまうという事態、いわば、主語の無効化した事態である。中動態は、何も不思議な事態を表現しているのではなく、日本語がそうであるように主語が不在であっても了解できる事態を考えれば、むしろ自然な表現でもある。

さて、私は、災害ボランティアにとって何が一番大切かと問われたときに、常に「ただ傍にいること」ですと応えてきた。災害ボランティアは、現場に来ると、しばしば「さぁ被災者を助けよう」と動き出す。そして、被災者の側に「さぁ、助けられます(とは直接言わないけれども)」という姿勢を強いてしまう。「ただ傍にいる」というフレーズは、こうした場面を回避しようとしてキーフレーズとしてきた。「ただ傍にいる」ということは、文字通り、無条件に被災者の傍らに存在するだけであって、いわば、能動態-受動態の生起以前の姿勢だと言えよう。そこには、意志や責任を問うというよりも、そこに存在すること、その偶然性が強調される。実際、災害現場でしばしば耳にする「助けに来たつもりが助けられた」という災害ボランティアの発言や、「支援する-支援される」関係を無効化して災害ボランティアと被災者が対等な人間関係を築くべきだという言説は、助ける側と助けられる側を固定的に峻別するような事態からは生まれない。

確かに、「ただ傍にいる」だけでは、助けもしなければ、助け方が問題になるわけでもないし、受援という発想もないから、災害ボランティア活動に関わる一定数の人々に不安を喚起するだろう。災害ボランティアは、被災者に「何かをしてこそ」の行為であると想念されるからである。しかし、助けるという能動態で被災者に迫ることからは、被災者を苦しめることはあっても、本当に助かったと思ってもらえるような事態は生じてこない。災害ボランティアは、「ただ傍にいる」ことによって中動態的に振る舞うことが大切だと思う。そのことが徹底された先には、「あぁ、助かった」と感じる社会が開ける。

 

ところで、共生学では、理論と実践は不可分であると思う。災害現場のように、誰が見ても頑張って汗を流して動き回っているというのはいかにも実践であるが、そこに理論がなければ、結局は行き詰まる。一方、いかに書斎に籠もって思索に耽るだけに見える理論家であっても、その思索の先に現場がちらっとでも掠めるのであれば、その理論はとても実践的である(そもそも理論と実践という区分が有意味であるかという興味深い議論には、ここでは立ち入らないが)。

では、中動態という議論を知った今、何を考えるといいだろうか。ここでは、中動態的に振る舞う災害ボランティアの先に展望される社会を「あぁ、助かった」と事後的に思える社会と考えて<助かる>社会と表示しよう。そうすると、実践的には、災害ボランティアを介して、いかにして<助かる>社会の実現を図ることができるのかということが問題になる。この紹介と平行して書いている論文は、そのための4つの方略に関するものである。機会があれば、読んで頂きたいと思うが、まずは、本書をああでもないこうでもないと考えながら読んでみて頂きたい。もちろん、本書に登場するスピノザやハンナ・アーレントについては、知らなければ深まらないが、そこで立ち止まることなく、まずはポイントと思われることを自分なりに拾い出して読んでみることも必要だと思う。

 

 (渥美公秀)